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一般に民間薬といわれるのはどんなものでしょうか
民間薬こそ生薬学、漢方薬学、西洋医学そして薬学成立の基礎、源となっています。
民間薬は人間自らにより生活と共に見いだして使用してきたものであり、多くの経験と体験によりその用い方が必要に迫られて編み出されてきたものといえます。そして、その用い方は活字のなかった時代からずっと言い伝えによってのみ、伝承されてきました。
伝える方法は民族によって様々ですが、種々の物語として語り伝えられてきました。大国主命が毛をむしり取られて赤裸にされた因幡の白兎を蒲の穂綿で治療した神話もこの一例です。
植物の名前にも多くはその植物の持つ力が示されています。渓谷の早春、いち早く根茎から柔らかなナスの葉のような新緑の葉をのばすハシリドリドコロはキャンプに来て山草を食べる人々の目を狂わせるだけの野菜様相を呈しています。食べると一時的に精神病の症状になります。ところかまわず走り出すのです。こんなところから和名のハシリドコロの名があります。
いろいろの病気になったとき、本能的に薬を得たこともありますが、すべてが偶然からの出発をしていると考えた方が妥当でしょう。食物から薬としての性質を見出す事が一番早いようです。
食物として自然物を考えるとき、人間に対して益するものばかりとはいえません。ましてや今まで食べたことのない植物を食物として経験しようとするときは、大きな努力と勇気が必要となります。そこに飢饉などの天然現象が介在すると新しい食物資源を開発する手がかりになるわけです。
昔に救荒植物が研究されました。これはこうした飢饉の際に有毒な植物を見分けることと食べる方法など、食物の代用となる植物についてのものです。
民間薬自身は多くの場合単一で用いられるところに漢方薬との大きな差異がありますが、民間薬にも複数で用いる場合があり、やや進んだ民間療法といえます。
経験による民間薬も同じ病気に用いるものの種類も当然増えていくことになり、そうした中にあって病人に対する民間薬の投与がどの種類のものを与えるべきか、あまりに多すぎてその選択に迷うことになりかねません。そうしたとき、台湾の高砂族による民間薬の複数による利用が目にとまりました。これは民間薬の発展段階と解すべきかどうかは困難ですが、用い方を見ると、例えば、痛み止めに用いる薬草が数種類ある時どの薬草を与えればよいか困ってしまいますが、このようなときに数種類を混ぜて服用させるわけです。その根拠はと聞いてみると、痛みを止める薬草には種類があり、それぞれ特徴があるので、こんな時混ぜて飲ませればどれかがその痛みを止めてくれるとの説明でした。
青草店という民間薬を取り扱う店があります。この店主は患者が来ると医者の役目もします。病態を確かめて裏口より適当な薬草を探しに出かけます。頻繁に用いるものは家の周りに植えてあります。ほとんどは山野に自生するものから調達するわけです。
初期の民間薬による民間療法は生育している生の植物が用いられます。アフリカ、ニューギニアなどの市場では青々とした野菜ではない
薬草の数々が並べられていますが、民間薬そのものといえます。この民間薬も用時飲用し得る形として乾燥し保存されるようになるわけです。
ついで青草店で見るように痛み止めになる薬草をできるだけ多く選び投薬をすることとなります。そのうちの一種が効能を発揮してくれることを期待してのことです。
民間薬が古くから伝承されたものとはいえ、伝承される理由はまず効き目があったからです。また、民間薬のみが治療に用いる唯一の薬であり、人々にとって重要な生活の必需品であったからです。
民間薬が古典に沿った漢方薬の出現、そして西洋医学の進出という環境にあって、今なお根強く大衆の中に発見することができるのはなぜでしょうか。病人やその家族、その友人などが、病人自身の自覚症状の訴えにより簡単に使い得るものは民間薬だからです。そこには使用に対する安心感と簡易さがあり、しかも副作用のないということにより、いっそう大衆の間に人気があると考えます。
新薬の研究は、効き目が確かである民間薬から出発していることは、民間薬が新薬を生み出す宝庫であることを示しています。
漢方処方と違って単一の動植物であるため容易に生理活性なる成分を分離することができるからです。
こうして得られた成分は構造が解明されると、さらに科学的に種々の化学変化を与えて新しい化合物を誘導していっそう生理活性の強いものに仕上げていくことになります。
こうした天然物の成分由来の新薬が増加するにしたがって、最初の発見の糸口となった民間薬が忘れられつつあることは大変残念なことです。しかし、戦後の医薬品欠乏期にあたり、民間薬の発掘と利用が極端に進められてきたことや、現在のように単一の生理活性成分を用いることは治療の手助けの役目とはなりますが、やはり大部分の病気の回復は自己の能力が大いに左右するはずです。
そして現在では薬が、あたかも自然の食物のようにバランスの取れた形で人間に与えることができるように配慮されるに至りました。
民間薬は、経験から出発して長年月にわたって人間自らの力により良いものは残し、悪いものは捨てるという自然淘汰を受けてきていますから、たとえ、何ら合理的に考えて作られたものでないにしろ、不合理品であると言うことにはならないと考えます。